バレンタインデーとかいう製薬会社に踊らされたアホどもの祭りを心底軽蔑していた私が二月十三日の夜に必死こいてチョコレートを湯煎しているのがなぜかと言われれば、それはもちろん彼氏ができたからに他ならない。
 彼氏ができました!
 いやほんと、世の中っていうのはいつだって予想を裏切る驚きに満ちていて、満ち満ちていて、私ってば制御できない感情の渦に翻弄されっぱなしなのだ。はあ、アキラ君とそういう関係になるとはね。アキラ君なんかと。三年前の私に言っても信じないだろう。殺されるかもしれない。
 告白されたのが初詣で、つまりバレンタインデーは二人にとって最初の大きなイベントだ。滾る。ここで盛り上がらなければ現役JKやってる甲斐がないってもんだ。
 バレンタインデー最高! チョコレート万歳! 製薬会社の陰謀とか、モテないやつのひがみだよね!
 かくいうわけで、私は慣れないお菓子づくりに精を出して、母親から揶揄されているというわけである。お母さんはあっちいってて! ちなみに一度すでに失敗している。指紋がついてる斑のチョコレートとか怖くて食えたもんじゃないよね!
 果たして本当にチョコレートを完成させられるのか、なぜもうちょっと前に作っておいて保存しておくという選択肢を思いつかなかったのか、不安と後悔は限りなかったが、明け方近くになってチョコレートは完成した。綺麗な形してるだろ。ウソみたいだろ、手作りなんだぜ、それで……。
 ミッションコンプリート……! というわけにはいかない。私は華の女子高生で、彼氏にバレンタインのチョコレートを渡すのだ。わかるだろ? 徹夜明けのボロボロの顔で恋人に向き合えるかっちゅー話だ! おいやめろ、恋人とか照れる。
 そこから二時間、出発ギリギリまでかけたごまかしメイクでどうにか体裁を整えると、私はいざ戦場へと赴いた。普段は梳かすだけの髪も、今日はなんとシニヨンにしてしまう。シニヨンって知ってるか? 画像検索してほしい。これを朝やるとか狂気の沙汰だろう? だが私はやってしまうのだ。なぜかって? ラブラブだからさ! アイラビューアキラ君!
 二月の朝は冗談みたいに寒い。ここ小洗町は海沿いの田舎町で、海風がビュビュンと吹くのでなおさらだ。おまけに私は自転車通学である。コートの前をキッチリ合わせてマフラーを巻いて手袋をして、さらに毛糸の帽子をかぶってなんとか登校できる寒さ。ああシニヨンが。シニヨンが崩れませんように。
 彼氏と一緒に登校したりできたらうれしはずかしスクールライフって感じで最高なのだけど、残念ながら私の恋人は町の反対側にある工業地帯の出身だ。学校は港湾地帯と工業地帯のちょうど真ん中にある。つまり正反対。さすがに並んで登校はできない。坂の多い通学路をえっちらおっちら、一人で自転車こぐしかないわけだ。つらい。でも大丈夫、今は愛が味方だから! うるせえよ!
 実際、愛だけで人は生きていけない。かくして体力を使い切る寸前、どうやら限界みてぇだ……の瞬間が訪れた。この坂。この坂だよ。急で長くて曲がってる。バカなの? でも大丈夫。ここを登り切った先に、なんとコンビニが現れるのだ。完璧な配置。救世主かよ。
 スパマートこあらいはこの辺唯一のコンビニで、ここにしかない。マジでここにしかない。コンビニってチェーン以外も存在すんの? するのだ。驚いただろう? 地方にお住まいの諸氏には同意していただけると思う。マイナーコンビニ、いいよね。一年前の一番くじとか置いてあるぜ。あと七時に開いて九時に閉まる。ひょっとしたらコンビニじゃないかもしれない。もちろん不便だがしょうがない。来い、セブンイレブン! と言っても来ないのだ。工業地帯にはあるのになあ!
 やたら広い駐車場に自転車を止めて、私はそそくさとガラス扉を押し開けた。自動ドアとかいう豪勢なものはない。
 店内は普通のコンビニを装っている。干し芋とか売ってるのはご愛敬だ。よくわからんお土産物の木彫りとかもあるが、まあ許されるだろう。最近じゃコンビニで木彫りを売るのがはやりなのさ。工業地帯のセブンイレブンにはおいてないが、あれはあっちが流行に遅れてるに違いない。
 ホットココアを買ってレジに向かう。おっと。レジにいたのは中年太りのソバカス面だった。こいつはここの息子で、何年もニートやった挙句放逐されかけてしぶしぶ店番に立つことになったという筋金入りの屑だ。噂で聞いただけだから実態は違うかもしれない。しかしこっちを見る目がいやらしい。近所の女子も胸ばかり見られると苦情たらたらで、こいつがいるからスパマートこあらいを使わないと明言する子もいるくらいだった。あわれスパマートこあらい。子供は計画的に育てような。
「ひゃ、ひゃくんじゅうにょえんです」
 なに言ってやがるこいつ。異次元語か? オークか? 通学路のコンビニが異世界へのゲートになってた件か? もごもごと口ごもるように喋るから全然伝わらない。レジには値段が表示されているから困ることはないのだが。
 小銭をぴったりに出すと、妙に時間をかけて枚数を確かめてからオークくんはレシートを渡してくれた。触らないでほしいが、手袋してるからまあいいか。袋を断ってココアを手にする。まだ先は長いぞ。
「あの」
 そこで呼び止められた。なんだろう。告白か? かわいそうだけど私にはアキラ君がいるのだ! いなくてもごめんだけどな! アキラ君がいないとか怖いこと言うな!
「これ、キャンペーン……」
 もごもごいいながら箱を出す。バレンタインキャンペーン。はあ。箱の中には一個二十円の小さなチョコレートがコロコロ入っていた。なるほど、こいつをもらえるというわけか。地方コンビニの店員が一生懸命に頭を捻った涙を誘うクソつまらないキャンペーンに、私は同情した。もらってやろう。タダよりタダなものはない。
 店員が女の子だったら男子も喜ぶだろうになあと悲しい気持ちになりながら箱に手を入れひとつ取り出す。きなこだった。ラッキーと言わざるを得ない。
 そのままコンビニを出て自転車にまたがる。幸い渡すチョコレートは用意している。こいつは糖分補給に使わせてもらおう。パクリとな。うまい!
 次の瞬間、私は意識を失った。

**

 急展開に文句を言いたい気持ちはわかるが、落ち着きたまえ。そりゃ私も同じだ。気が付くと、私はせまっくるしい部屋の中にいた。机が一台、周辺には段ボールや書類が山積している。奥の棚に大量のポテトチップスが並んでいるのも見えた。ほほう。ここはいわゆるバックヤードというやつでは? おそらくつきだが、スパマートこあらいの事務所ではないだろうか。なぜって、目の前にニートオークくんがいらっしゃるからだ。
 眠っているのか、椅子に体を預けて俯いている。なんだこいつ。ていうか、これどういうこと? 監禁では?
 ともかく動こう――あれっ? 動かない。右手も左手も微動だにしない。顔も動かせなければ瞬きすらできない。なんだこれ? ジワリ、とおなかのあたりで何かが染み入るような不思議な感覚があった。なにかってなんだ。ソレは甘い香りをただよわせながら胃の中に充満して、そのまま内臓に広がっていく。えっ、ていうか、これはなに、どういうアレ? 金縛りですか? それとも夢ですか? まさか薬とかじゃないよね?
 あまりにも唐突な展開にいまいち危機感を抱けないでいると、ズクリと胸が痛んだ。胃の中から浸蝕する甘いナニカが、心臓に到達したのだと一瞬後に気がつく。えっなんだ、なんだこれ? ほんとなに? どういうこと?
「――ぁ」
 勝手に口が開いて、勝手に声が出る。その喉を、私の右手が抑えた。抑えた――勝手に。勝手にだ。頭の中で何かが警鐘を鳴らしている。ジワジワと勢力を広げるそれは喉を侵し、四肢を侵し、そして、それらを自在に操りはじめたのだ。
 ちょっと、待って――
「あぁあー……あん、うん、うん」
 ――待って!
 調子を確かめるように、うん、うんと繰り返しながら、私が立ち上がった。私がだ。なんだこれ、どうなってるんだ。掌を開閉し、軽く屈伸して、不調がないことを確かめている。私が。私のカラダが!
「は、はは……成功したぞ」
 私がそう言った。どう聞いても私の声なのに、粘つくような、いやらしい響きに聞こえたのはなぜだろう。
 私のカラダはどこか慌てるような仕草でマフラーを取り、帽子を取り、コートを脱ぎ捨てた。ゾクリと寒気が走る。コートを脱いでも暖房が入っているから、本当に寒いわけじゃない。私は遅ればせながら――本当に今更遅いけれど、これはヤバいと気が付いた。
 誰かが、知らない誰かが、いや、きっと目の前のニートオークが、私のカラダを操っている! 私に乗り移って、私を乗っ取っているのだ!
 嘘でしょ、なにそれ!
 カラダのどこも動かせない私は悲鳴すらあげられない。笑いながらブレザーも脱ぎ捨てると、白いブラウスにプリーツスカートだけの格好になってしまう。どうしよう。この先何をされるのかなんて考えたくもない。
 視線が机の上のモニターに向く。ひとつは営業用の端末だろう。隣のひとつには監視カメラの映像が映っているようだった。スパマートこあらいも万引き被害に悩まされているのだろうか。
 手袋を脱いだ私の指が機材を操作すると、画面がカチカチと切り替わる。現れたその映像の中に、私が立っていた。
 部屋の天井、その隅、事務所の中を映すカメラ。そいつは、俯くニートくんとその目の前で服を脱ぐ私をしっかりと見ていた。
 ――えっ。
 待って、待って、本当に待って。――本当に、待って。
 なにをする気なの。私のカラダを使って。私のカラダで。何を。何を?
 戸惑いをあざ笑うように、指先がポチポチとブラウスのボタンを外していく。わざわざカメラに見せつけるように。そのまま袖を抜いて、インナーのシャツも脱ぎ捨てると、あとはもうおしゃれなレース地のブラジャーしか残らない。上下おそろいのピンク色。
「なんだぁ、エロい下着だな……非処女のリア充が」
 なんてひどい言葉。別に今日何かを期待していたわけじゃない。そんなの怖いじゃないか。私はただ、特別な日だから自分を奮い立たせたかっただけだ。こんなことを言われる――言わされるいわれはないじゃないか。
「非処女なら、遠慮いらんよな」
 処女だよと叫びたかったけれど、それはできない。
 ブラジャーの外し方がわからないのか、しばし手こずってから結局ソイツは頭から下着を抜いてしまった。正直小さいと思うおっぱいが暖房のぬるい空気に晒される。背骨がカッと熱くなった気がした。
「うほぉ」
 粘つく声が悦んでいる。モニターにはしっかりと、上半身裸の女子高生が映っていた。監視カメラ。ビデオに撮っているはずだ。これが残る。残るのだ。いやらしい顔で自分から服を脱ぐ姿が。
 ――ひどい。ひどいすぎる。なんだよこれ。なんなんだよ。
「ちいせえなあ。非処女のくせに胸までちいさいとか、使えねえ」
 勝手なことを言いながら、細い指先が胸に添えられた。ふにふにとやわらかさを確かめるように蠢く指。私だって自分の胸を揉んだことくらいある。けど今はその時とはまるで違った。気持ち悪い。その時だって快感を得られたわけじゃなかったが、これほどの嫌悪はなかった。胸がくにゃりと変形し、指が肉にうずまるたび、私の中の大切なものがひとつずつ穢されていくようだった。
 やめてと叫んだけれど、声にならない。
「ほら、気持ちよくもねえよ。感度の悪い貧乳とかさあ」
 つまらなそうに言って、指先が胸から離れる。ほっとしたのもつかの間、その手がそのまま下におろされた。
 下に。
「よっと」
 プリーツスカートはそのままに、生地のなかにもぐりこんだ両手がするりとソレを引き下ろした。ピンク色のレースの下着。今日のために選んだとっておきの一枚。
「ビッチ」
 嘲弄とともに、それが床に捨てられた。
 ローファーがそれを踏みつける。カメラに向かって腰をつき出すと、スカートの裾を持ち上げて口にくわえた。机の上に足をかけて、天井のカメラにもよく見えるように。
「おまんひょれーす」
 耳元で悲鳴が聞こえた。きっと、表には出せない私の声だ。
 モニターには、はしたなく秘部をつき出す私がはっきりと映っている。また機材を操作すると、今度は一部が拡大表示された。
 いやだ。
 いやだ、いやだ、いやだ! こんなのいやだ!
 はっきりと――はっきりと、いやになるくらい、なんでこんなに高画質なんだと呪いたくなるくらいはっきりと、そこには「私」が晒されていた。二本の指が添えられて、くちっと口を開かされる。
 かすかに淡い繁みも、その奥のピンク色の媚肉も、皮をかぶって縮こまるクリトリスまで、残らず全てが、もちろん無修正で。
「グロっ」
 そう笑うと、スカートの裾を吐き出すように口から離して、腰のあたりでたくしあげる。両手と口が自由になって、しかも肝心の場所は晒されたままだ。
「ヤリマンビッチはこれだからなあ」
 ならもう放っておいてくれ。解放して。もう許して。私が何をしたっていうんだ。今日は、今日は良い日になるはずだったのに。手作りのチョコレートを渡して、アキラ君に笑ってもらえるはずだったのに。喜んでもらえるはずだったのに。
 どんな顔して、彼に会えばいいんだよ。
 にちっ、と秘洞の中に指がもぐりこんだ。ぐにぐにと無遠慮に押し込み、爪の先で肉襞をこすりあげる。ゾワリと這い上がるのは吐き気と嫌悪感を足して二乗したような感情だ。気持ち悪い。気持ち悪い。私の指で、私の中を、そんなふうに触らないで。
「はァッ……ん……」
 わざとらしく甘い声をあげながら、右手の指がぐねぐねと蠢く。ひと押しごとに吐き気が強くなる。自分でさえ、こんな触り方をしたことなんてない。いつか誰かに触れられることを考えなかったわけじゃない。けれど、こんな場所で、こんなふうに、自分の指がここを漁っているところなんて、誰が想像できるだろう。
「あはぁ……んっ、んんッ……」
 それは生理反応なのか、それともコイツが感じているからそうなるのか――徐々にソコが湿り気を帯びはじめた。淫蕩な空気がじわじわと広がって、指先が糸を引く。
「濡れた濡れた。変態ビッチめ」
 げらげらと笑う。
 なんだろう。なんなんだ。もうやだ。もうやだよ。私はがんばってきた。今日まで一生懸命やってきた。褒められるべきだとは言わないけれど、こんな仕打ちを受ける理由はないはずだ。そうでしょう? こんなのあんまりだ。あんまりだよ。
 泣くこともできないなんて。
「じゃ、いよいよだ」
 手を股に差し込んだまま床に立って、そいつは振り返った。
 視線の先には俯いたままのニートくんがいる。「俺のカラダ、生きてるよな」と私の口が言った。
 いよいよ?
 私の手がニートくんの顔に触れて、そのまま首筋にあてられた。トクトクと脈動を感じる。生きている。死ねばいいのに。せめて死んでくれ。死ねよ!
 願いむなしく、ニートくんは微動だにしないものの、意識がないだけで健康なようだ。「うふふ」と変な笑い声が聞こえた。私の声か? 死にたい――なんて言うもんか。ちくしょう、ちくしょう。絶対に殺してやる。殺してやるからな。
 私の視界の中で、私の指先が、ニートくんの股間の添えられた。一瞬思考が止まる。こいつ。こいつ。こいつ!
 ジッパーを下す。ぼろん、とソレが顔をだした。意識がないはずなのに、どういうことかビンビンに勃起している。嘘でしょ。なにこれ。こんなものが人間のカラダに生えてるの? おかしくない?
「効いてる効いてる。ふほ、ふほほ」
 いよいよ。さっき、こいつはいよいよっていった。いよいよ、これからが本番ってことだ。こいつは、つまりこいつは。こいつは。
「ビッチじゃ不満だけど、まあいいか。童貞卒業、オメ!」
 ――こいつは。
 座ったままのクソニートのカラダを少し傾けて、私のカラダがその上にまたがる。右手は股を開いて、左手はクソニートのクソちんこを握って、位置合わせをするように、
「いきまーす!」
 待ってよ。待ってよ、いやだよ。いやだよ、いやだ、うそ、うそうそうそうそ! やめてよ! やだ、やだやだ! やだあ! 誰か! 誰か助けてよ!
 アキラ君!

 ――ずぐっ

 衝撃が、カラダの中心を走った。
 嫌悪感とか、吐き気とか、そういう問題じゃない。純粋で物理的な打撃だった。何かが破れるブチブチという音を聞いた気がする。
「ふっ、ハッ……! いって……!」
 ズグズグと熱に似た何かがせりあがってくる。腰から下が燃えているみたいだ。揺れる視界がそこに向いた。くしゃくしゃになったスカートの向こうで、クソニートと私のカラダが密着している。
 ぐじゅ、と耳に障る音を立てて腰が浮き上がる。赤いものがてらりと光った気がした。
 ――失った。
 失ってしまった。大事に思っていたわけじゃない。そこまでの貞操観念はないよ。でも、こんな、こんな男に、こんなの、こんなのひどいよ。なんだよ。なんだよこれ。なんなの……
「うっ、ふっ、あゥッ、ううん……」
 ゆっくりと、腰の上下運動がはじまった。浮かせるたび、沈めるたび、痛みだけが這い上がってくる。気持ち良さなんてカケラもない。ただひたすらに悲しくて、つらくて、痛くて、言い知れない喪失感が渦巻いている。
 大切なものを無くしてしまった。もう取り戻せない。取り返しがつかないのだ。アキラ君。アキラ君。アキラ君。
「はあっ、ん、んっ、ふうん……」
 血が潤滑液になっているのか、じゅぱじゅぱと音を立てながら腰を振り乱す。私はひたすら痛いだけだが、こいつは平気なのだろうか。吐き気がする。これは私の吐き気なのか? もういやだ。もういやだよ。
「あっ、ああっ……」
 唐突に、何かがおなかの内側を叩いた。生ぬるい感触が染み入ってくる。気持ち悪い。
「ふぅ……こんなもんか……」
 つまらなそうに言って、腰をあげる――今度は下ろさなかった。そのまま体を離すと、でろんと力を失ったニートちんぽが垂れさがる。かすかに血のついたそれの先から、白濁する液体がちろりとこぼれていた。
 同じものが。
 私の股間からも、垂れている。
「大して良くなかったな。いってえよ。ほんとつかえねえビッチ」
 垂れている。
 白い、白い、粘つく何か。私の血を吸ってかすかにピンク色に色づいているようにも見えるそれが、どろりと太ももを伝っている。
 どすん、と胸に穴をあけらた。そんな気がした。
 中に――出しやがった。
 私のいちばん奥。いちばんの秘密。誰にも触れちゃいけないところを。そんなふうに。こんなふうに。何かのついでみたいに。
 なんだよこれ。
「いて、いてて、もうだめ、むりむり」
 ぐらり、と視界がゆれる。ためにためた吐き気が一気に湧き上がる。耳元でゴウゴウと音が鳴って、私は床に倒れた。
 痛い――
「うっ、ぁ……」
 ――そう言おうとして、変な声が漏れた。とっさに床についた手がしびれている。ジワジワと響く股間の痛みがおさまらない。ぼろりと突然涙がこぼれた。心臓が痛い。おなかの中で悪いものが渦巻いている錯覚。
「ほら、返してやったぞ」
 顔をあげる。垂れ下がった股間のモノもそのままに、クソニートがこちらを見下ろしていた。馬鹿にするような目だった。
「はやく帰れよ。客が来たら怒られるだろ」
 脱ぎ散らかした制服を放られる。なんだこれ。なんなんだよ。私が泣いて動かないのを見ると、ニートは「ははあ」と笑い声をあげた。
「なんだ、ちゃんとシてほしいのかよ、ビッチ。まあ、ちょっと待ってくれれば回復するからさ」
「……は?」
 なに言ってんだこいつ。正気なのか? あたまおかしいんじゃないか。
「違うの? じゃあ、早く帰れよな。わかってると思うけど、ビデオあるからね」
 言いながら、机の上に放置されていた私のカバンに手を伸ばすと、クソニートはスマホを取り出した。私はパスコードをかけていない。「やっぱりビッチだ」とわけのわからないことを言いながら、クソニートは自分のスマホと通信をしたようだった。
「呼び出したらすぐ来いよ。死んだり逃げたりしたら、お前の学校にも友達にも、ネットにも、ビデオを流しまくるぞ。ま、ヤリマンのビッチじゃ脅しにならないのかな」
 笑いながら「そしたらまた体を操ればいいか」と、こともなげにクソは言った。あたり前のように。ゲームの攻略法を口にするように。
「わかるよな。お前は自分から誘って、自分から腰を振ったんだ。訴えても僕が勝つよ。なんならさあ、僕はお前を好きにできるんだからな。家族とか、友達とかさあ」
 ザワザワとノイズのような音が鳴っている。視界が暗い。頭が、体中が痛い。何も見えないし、聞こえない。クソが何かを喋っているようだが、私はしばらく動くことができなかった。
「おい! 早くしろって言ってんだろ!」
 バン、と何かが体にあたった。カバンを投げつけられたのだ。顔をあげると、不機嫌そうにクソが私を見ている。怒っている。これ以上、何をされるかわからない。
 私はあわててブラウスだけを身に着けると、ブレザーとコートを抱えて走り出した。背後で何かを叩く音が聞こえる。下着が全部事務所の中だ。でももう、どうしようもない。
 そのまま店内を走り抜けて外に出た私は、自転車にカバンをつっこんで店の裏に回った。通りから見えない位置で息をおちつけると、のろのろとした動きでブレザーを身に着け、コートを羽織る。傍目には何があったかなんてわからない。大丈夫。大丈夫だ。
 毛糸の帽子も、マフラーもちゃんと持っていた。帽子をかぶろうとして、シニヨンがぐちゃぐちゃに崩れていることに気がついた。いつもよりおしゃれをして驚かせたかった。こんなふうにもできるんだよって自慢したかった。どうしようもない。シニヨンをほどいてしまっても、髪は乱れたまま、いつもよりひどいありさまにしかならない。
 ぼろぼろと涙が落ちていく。胸にあいた穴が痛い。痛いよ。
 カバンの口が開きっぱなしだ。私はジッパーを閉めようとして、
「……え?」
 くしゃくしゃに丸まった包装紙とリボンが、端っこに突っ込まれていることに気が付いた。
「え?」
 チョコレート。一晩かけて、アキラ君のために作ったチョコレートだ。包装紙の隣に、むき身の箱が転がっている。震えてる手でそれを開いた。
 気合の入りすぎたハート型のチョコレートは、半分だけが残されていた。
「……あ、」
 ――ここで泣くな。ここで叫ぶな。あいつに気付かれたら、また、またひどいことをされる。
 ハンドルを握りしめる。力をこめると、車輪が前に進んだ。足の付け根がバカみたいに痛い。ちゃんと歩けない。自転車に乗るなんて絶対無理だ。カラカラと押しながら、私は学校とは反対方向に向かった。無理だ。もう無理。絶対無理だ。
「う」
 コンビニが離れていく。坂道を下っていく。今は何時だろう。誰もいないところを見ると、登校時間は過ぎているのかもしれない。スマホにはきっと連絡が来ているだろう。
「うう……う、う」
 ずきずきと全身が痛む。今日はバレンタインデーだ。付き合いはじめて最初の大きなイベント。気合いをいれて、おめかしして、とっておきのチョコレートをつきつけて、やればできるでしょって胸を張るんだ。アキラ君は驚いて、ちょっとおちゃらけたことを言いながら、照れたようにありがとうって言ってくれる。キスもまだの私たちだけど、今日は一歩踏み出しちゃうかもしれない。
 そういう日になるんだ。
「う……うあ、ああ、ああああ……っ! うわあああぁん……あ、あああ……!」
 そういう日になるんだ。そういう日になるはずだった。人生でも、きっと何番目かに幸せな日になるはずだったんだ。はずだったのに。
 自転車が倒れた。坂の途中で蹲って、私は両手で顔を覆った。起こせない。こんな重いもの持ち上げられない。こんな長くて急な坂、もう進めない。家までが遠い。歩いてなんて帰れない。生きていけない。でも死ぬこともできない。どうして? どうしてこんなことになったの。
 今日は、バレンタインデーなのに。
 バレンタインデーだったのに。

ブラック・ブラック・チョコレート/おわり