便意とは自分勝手な恋人だ。
 こちらの都合を全く考えず、来てほしい時には全然来ないくせに、絶対に来てはいけないという時に限って唐突に現れて体と心をめちゃくちゃに振り回す。最悪だ。DVだ。今すぐ別れるべきだ。健康で安定した食生活と睡眠が必要だ。
(――それができたら、苦労しない!)
 というわけで、早朝の満員電車の中、時原桐花は腹を抱えていた。これが爆笑の比喩だったならどんなによかったか。もちろん、文字通り両腕で腹を抱えこんでうめいているのが現実だった。なにも喩えていない。そのままだ。
 出がけに飲んだスムージーがいつになく効いたのか、それとも季節の変わり目でおなかが冷えたのか、あるいは理由なき胃腸の反乱か――いずれにせよ、改札を通る瞬間の肛門のうずきはもはや痙攣に近くなっており、打ち上げられた魚のようにせわしなく開閉を繰り返す菊門はいつ決壊してもおかしくない。下腹部はゴロゴロと遠雷のような唸り声をあげて、臓物を雑巾絞りするような鈍痛は渦を巻きながら三日分のナニを押し出そうとしている。これが寝起きの自室で起こったのならば、諸手を挙げて喝采したものを!
(死ぬ――このままじゃ死ぬ!)
 もちろん社会的にだ。
 桐花はOLだ。これは通勤電車だ。つまるところ毎日この路線のこの車両を使うわけで、しかもちらほらと同僚の顔が見える。ここで解放なんてしたら。満員電車で、しかも大きい方をブチマケでもしたら。
 絶望だ。絶望以上の絶望だ。お嫁にいけないなんてもんじゃない。死ぬしかない。
(SNSに晒される! まとめニュースに載る!)
 絶望を打ち倒すのはいつだって希望だ――桐花は下腹部を両手で抑えながらジリジリと扉へ向かい、ちらりと上部の電光案内板を見た。まもなく次の駅。桐花が働くデザイン事務所の最寄り駅は更に次だが、もう無理だ。ここで降りて、駅のトイレで全てを解き放ったら、一本あとの電車に改めて乗るしかない。
(小さい駅だ。トイレを探す必要はない!)
 ぐっ――と肛門に力をいれる。具体的なトイレを意識した途端に勝手に括約筋が役目を終えようとしたのだ。「やった、解放だね! じゃあもういいよね!」と言わんばかり。ふざけんな、もうちょっとがんばれ。ちゃんと達成を確認しろ。ゆとり教育か!
(着い――た!)
 ぷしゅーっと思いのほかSFチックな音を立てて扉が開く。この駅で降りる人間はほとんどいない。桐花はおぼつかない足取りでふらふらとホームに立つと、トイレを求めてさまよいだした。背後で誰かが笑った気がしたが、構っていられない。
 中途半端な前傾姿勢でよちよちと歩き出した桐花だったが、一歩進むたびにおなかに衝撃が轟くことにすぐ気が付いた。まずい。これもうそんな保たない。
 もう満員電車でもないし、ここは普段あんまり降りない駅だが、そういう問題じゃない。死にたくない。まだ死にたくない。花も恥じらう二十代。四捨五入したら三十だが、まだアラサーにはなっていないと信じている。死にたくない、神様、もうちょっとだけ!
 トイレまで!
「あった!」
 地獄の底から響くような声でそう快哉を絞りだすと、桐花はホームから階段をあがってすぐにのところにあるトイレに駆け込んだ。今時男女共有。ものすごく汚い。あの黒いシミはいったいなんだ。アンモニア臭が立ち込めている。臭いというかもう痛い。史上最悪のトイレだった。
 しかし今は、このトイレこそが神の在処だ。
 個室はひとつ。空いている。
 よちよち歩きから一か八かの早歩きになって、桐花は個室にすべりこむと扉を閉めた。ハンドバッグを取り落とす。
(床、汚――ああもう!)
 構っていられない。レディーススーツのスカートをまくりあげ――瞬間、ゾワリとした悪寒じみた何かが桐花の肛門から直腸までを走り抜けた。
(ストッキング――!)
 だめだ! もう間に合わない!
 両手を腰から五十デニールの安物ストッキングに差し入れて、思い切り引き下ろす。ピリピリピリ、と盛大に伝線する感覚が指先から伝わってきたが、あきらめるしかない。ここで捨てていこう。グッバイ黒スト。まあ別に大して惜しくない。
 ストッキングと下着をまとめて引きずりおろした桐花はそのまま和式便所にまたがった。ひんやりとした風がまるいお尻を撫でる。もはや菊口は開閉すらしていなかった。震える口を半端に開いて解き放つ瞬間を待っていた。充填百二十パーセント。いつでも撃てます。
 ここはトイレだ。誰もいない。扉も閉まっている。鍵もオーケー。
 よし。
(卍――解!)
 桐花は全てを解き放った。
 直腸を渦巻く鈍痛と怖気が一点に向かって疾走する。全力で締め付けていた括約筋がその力をゆるめ、入り口で踏ん張っていた三日前の硬いやつがボロボロと落下する。そして、
「ふ――ぁ!」
 それは灼熱だった。腸を疾走し、猛烈な熱で体のうちがわを焼きながら、かつてない勢いで排出口から飛び出していく。まるで噴火だ。聞くに堪えない下品な音が狭い個室にこだまして桐花を責め立てる。我慢に我慢を重ねた直腸と肛門は猛烈な勢いと熱に震え、悶えて、その震悶はとろけるような感覚となって腰から背骨を逆流していく。両腕で体を抱きかかえて、桐花は自分でも驚くほど甘い声をあげた。
「ああ――ぁああ……」
 下劣に下劣を重ねた最低の音を何度か聞いて、おなかの灼熱がすべて抜け落ちて、ついでに膀胱の中身まで残らず解き放ってやっと、桐花は大きく吐息をついた。吐いたあとに吸った空気に吐き気がするほどの激臭がまとわりついていたが、とりあえずなかったことにする。
「間に合った……」
 かつてない戦いだった。瀬戸際だった。断崖絶壁だった。二時間ドラマだった。そうだよ刑事さん、あたしが犯人だよ。こんなやつ突き落しちゃえよといつも思っていたが、桐花はついにそれを達成したのだ。いやしていないが。した気分だった。
 カラカラとトイレットペーパーを回して、肛門にあてがう。紙があってよかった。確認する余裕はなかったが、これで芯しかなかったらストッキングで拭く羽目になるところだった。どうせ捨てるものだが。
(会社間に合うかな……)
 ようやっと、そんなことを考える余裕ができたころ、
「ん?」
 ――それは来た。
 耳の奥、頭の底、肉体とつながらないどこか遠いところで、ちょろちょろという水音が聞こえる、なんだろう。隣の個室だろうか。いや、このトイレに個室はひとつだけだ。男子用の小便器もない。男女共有だから当然だ。
 肛門を拭き終えてもう一度トイレットペーパーを取り出す。今度は前にあてがって、軽く拭き取り――
 ――ぢょろぢょろぢょろ……
「んん?」
 今度は先ほどより大きく、明瞭に、それが聞こえた。おしっこの音のように聞こえる。こんなところにいるからだろうか。それにしてもどこから? まさか外からか? 立ちションか?
「……え?」
 違和感に気付いたのはその時だ。紙を便器の中に落として、桐花は首をかしげた。尿意だ。おしっこがしたい。今したばっかりなのに。
 なら今してしまおうと思っても、なかなか出ない。ぢょろぢょろと排尿の音ばかりが耳の奥で大きくなり、それしたがって尿意も切迫していく。これはなんだ?
(え?)
 ふと、汚いトイレの汚いトイレの中に、汚い落書きを見つけた。マジックか何かで書かれたのだろうそれは、雑な鉤文字で『受信トイレ』と読み取れる。
(受信――)
 受信?
 何を受信するのだ? 何が送信されてくる? ぢょろぢょろぢょろ。水音が響く。おしっこがしたい。したいのに出ない。おなかが重くなった気がする。下腹部にたまっている。何が? ぢょろぢょろぢょろ。これはなんだ? これは。
(受信――している?)
 何を?
 ぢょろ……ちょろちょろ……ちょろ……
 水音がか細くなり、やがて止まった。尿意は限界の二歩くらい手前だ。小走りでトイレに行くくらい。なのに出ない。なにかが堰き止めているみたいだった。
(……なに?)
 ぞくり、と体の奥のほうで何かが震える――何かが蠢く。尿意が意思を持っているようだと思ったが、そんなはずはない。そんなはずはないのに、その蠢動は膀胱からじわじわとひろがっていく。受信トイレ。受信。なにを。なにを?
(な――なん……なんなの!?)
 ザワザワとした感覚が耳元でささやいている。それはほとんど直感に近かった。
 これは、この尿意は、他人の――だ。
(他人の――)
 ほかの誰かの――おしっこだ。
「いやだ!」
 立ち上がろうとする――しかしできない。足が地面にはりついたみたいだ。膀胱の焦燥感が筋肉に染み入って両足を縛り付けている。
「なん――なんなの、やだ、ちょっと!」
 気持ちが悪い。最悪だ。何がどうなっているのかまるでわからないが、しかしもはや確信があった。他人の尿が、自分の膀胱に注がれているのだ。
「いやだ! 出て! 出てよ! なんで!?」
 しかし体がまるでいうことをきかない。膀胱はたぷたぷで、桐花の体の奥が最悪の方法で穢されたと語っている。そこから染み出たとした思えない悪意が、下半身を拘束しているのだ。
(やだ、やだ、やだ、やだやだやだ!)
 気持ち悪い。怖気が走るとはこのことだ。世の中にはおしっこを飲むというハイレベルな変態がいるらしいが、そいつらだって膀胱に直接尿を注ぎ込もうとは思うまい。最悪というにもぬるい、地獄の拷問だってもうすこし罪人に優しいだろう。
「う……うううう」
 ともかくどうにかしなければ。脚はまるで動かないが――
「う……っ」
 じわりと。
 じわりと、染み入るような違和感。
(のぼって――きてる!)
 膀胱にたまった尿からジワジワと染み出したそれは、少しずつ上半身にも向かってきた。焦燥をまとった悪意が、下腹部から上へと。上へと。
(や、やだ、あ、ああ――)
 このまま上がってきたら、どうなるのだ?
 桐花がそれに気付いた瞬間、侵食の速度が爆発的に増大した。爪先から脳天までを何か冷たく汚いものが走り抜け、あとを追うように黒い汚辱が制圧を開始する。
 あれほど桐花を苦しめた腸をさかのぼり、おなかを踏破し、肋骨にまとわりついて、肺を行軍する。背骨がひとつずつ汚染されて、体を抱きかかえる両腕もいうことを聞かなくなる。そこそこあると自負している胸を過ぎ去り、その奥の心臓を掌握して、鎖骨を乗り越えて首元にまで迫る。
(な……)
 ここにいたって、桐花ははじめて恐怖を感じた。首から下が動かない。動かないのだ。電池の切れたおもちゃみたいに。あるいは、電波の届かなくなったラジコンみたいに。
 桐花の脳が必死になって送る信号を、体が受け取っていないみたいだった。
 受信――できていない。
 黒い焦燥が、じわりと喉元に辿り着いた。
「なに、なんなの……やめて……!」
 一体誰に、なにを懇願しているのか。
 それさえわからないまま、桐花は口を開いて言葉を止めた。喋れない。その汚濁は鼻をすぎ、目をくぐり、そして、
(やめて――!)
 脳髄を、

**

 脳髄を染め上げた。
「おっ……おお……」
 桐花はパチパチと瞬きを繰り返し、それからにんまりと笑った。自らを抱えていた両腕を開き、調子を確かめるようにグーパーを繰り返す。軽く頭を振ると、慎重なしぐさで立ち上がる。
「くっせ。なんだこいつ」
 鼻をつまんでそういうと、足元にまとわりついていたストッキングと下着を脱ぎ、まじまじと見つめてからくしゃくしゃに丸める。しばし迷うようにしてから、ハンドバッグを見つけるとその中に押しこんだ。
「ストッキングぼろぼろじゃん。限界すぎるだろ」
 けらけら笑うと、足で和式便器のレバーを倒す。盛大な水音が響いて糞便が流されていく。二回ほど腰を捻り伸びをして、桐花は個室を出た。
 トイレの入り口には鏡がある。そこに自分の姿を映して、右から、左から、容姿を確認するように桐花はためつすがめつ自分の顔を眺めた。
「悪くない――いや、良いな。良いねえ」
 その場で軽く飛び跳ねて、そのままトイレを出た。駅には通勤するのだろう人たちがまばらに見える。この時間でもここはそんなものだ。静かなざわめきの中、風の感触が桐花を撫でていく。
 指先をぺろりと舐めると、苦みと塩味がじわりと舌先に広がった。
「五感すべて良し――フン、」
 そこでやっと、桐花は全身から力を抜いた。確認作業を終えて、一息ついたようだった。
 口元をゆがめる。二十代の女の子が浮かべるものではない。醜悪な欲望をそのまま形にしたような、狂気を孕む笑い方だった。
「受信――完了」
 そして桐花は歩きだした。ホームではなく、改札に向かってだ。ハンドバッグを漁ってICカードを探りだすと、するりと改札を抜けて駅舎から出る。見慣れた外の景色に目を細めて、桐花はくくく、と笑いだした。
「おしっこしてえ――今回はどのくらい我慢できるかな」
 不便だなあ、と苦笑する。
「でもまあ、出しちまうとおわっちまうからなあ。さてさて」
 今回はどうしようか。
 笑いながら、桐花は歩きだした。弾むような足取りにあわせて、膀胱を満たした汚尿が跳ねまわる。そんな愉快な想像が、彼女の足をより軽くした。

**

 ――脳髄を、
「え?」
 光だ。
 まぶしい光に目を細めて、桐花はかすかにうめいた。なんだ。なんだっけ?
(朝――?)
 なんだっけ。今何時だろう。今日は何日だ? 仕事に行かないと。準備をしないと。桐花を急かすように、体の奥が震えている。
「ねえ、なにあれ」「うそー……きったな……」「お前撮るなよ」「誰か駅員呼んできたの?」「あれ時原さんじゃない?」「酔っ払い?」「やばくね?」「電車大混乱なう」「AVじゃなくて?」「サイテー」「病気じゃないの?」「早く行こうよ」「ねえ、誰かなんとかしてよ」「これ電車止まるんじゃね?」「もう止まってる」「穿いてないよ」「アップしても平気かな?」「カオだけ隠しとけよ」「ちょっと、すいません、通してください」
(――なに? 誰の声?)
 光に目が慣れる。世界に輪郭が戻る。色がつく。そこは。
「え?」
 学生が、サラリーマンが、見知らぬ他人たちが遠巻きに自分を見てる。意識が混乱する。ここはどこだ?
「え……?」
 あの目はなんだ。好奇。哀れみ。嫌悪。それに、それに――
「だいじょうぶですか?」
 駅員らしき男がそう言った。だいじょうぶ。なにが? 今自分はどうなっているのだ? 「あ、はい……」とあいまいに応えて、桐花は、
「……だいじょうぶ……」
 自分を見た。
 ぴちゃりと水音が響いた。冷たい床が素肌に触れている。その中で、かすかに温かい感触がある。またぐらからふとももにかけて、じわりとぬるま湯のような温度が広がっているのだ。見れば水たまりがある。桐花はその上にへたりこんでいた。スカートがまくれあがって、ふとももが晒されている。ストッキングはどうしたっけ? そもそもここはどこだ? これはなんだ? 体の奥のほうで、何かが訴えるように震えている。意識が追いつかない。みんなが自分を。自分を見て。
「……え?」
 ここは――電車の中だ。
 遠巻きに桐花を見るのは乗客たちだ。声をかけているのは駅員だ。では自分は? 車内で水たまりにへたりこむ自分は? シャッター音。チロリロリン。抗議するように、おなかの奥で何かが震えている。声がする。汚い。汚い? なんだっけ、どうしたんだ? 疲れていたのか? 眠ってしまった?
 なまぬるい水たまり。これは。
「え?」
 これは。
 顔をあげる。穢れたものを見る侮蔑の眼差しが、幾十も桐花を突き刺している。視線をおろす。まくれあがったスカートからのぞくむき出しの秘部は、たちこめるアンモニア臭の中で何かを求めるようにひくついている。
「ともかく、立って」
 駅員に体をひきあげられる。ふらふらと立ち上がると、

 ゴトン、

 と股から何かが落ちた。
 電車の床の上で振動音を響かせながら跳ねまわるそれは、受け取った信号に従ってブルブルと震えている。太く、長い、ピンク色の反り返った棒。悲鳴が聞こえる。シャッター音が響く。視界の中で、ぬらりと透明な液体が床まで垂れ落ちた。
「あ」
 理解はできなかった。だが思い出した。駆け込んだトイレ。動かくなったカラダ。途切れた意識。そして。
「あ、ああ、」
 腕を引かれる。駅員が怒鳴っている。シャッター音。SNS。動画サイト。
「あ――」
 ああ、死んだ。
 
「――いやああああああああああ!!」

**

 突然叫び出した桐花を、駅員が二人がかりで無理やり連れだしていく。汚いものを避けるように乗客の人波が割れ、桐花は叫びながらホームの奥へと連行された。
 ざわめく車内では、持ち主を失ったピンク色のバイブが、それでも受信をつづけて、尿と愛液のまじりあう水たまりの中で波紋を広げていた。

受信トイレ――信号途絶