ペンが落ちた。
 机の上でカラカラと転がる百均のシャーペンは、教科書にあたって動きを止める。落ちた拍子に、ノートの端に鉛筆の跡が残ってしまった。
(……なんだ?)
 心中つぶやいて、私はかすかに首を傾げた。授業中に小手先でペンを遊ばせて、結果机に落としてしまうのはいつものことだ。しかし今の一瞬には違和感があった。
 指が動かなくなった、ような。
「……?」
 わきわきと五本の指を動かしてみる。指は思った通りに動いた。気のせいだろうか。落ちたペンを拾ってノートの端にさらさらと文字を書く。あいうえお。うん、いつもの字だ。
(気のせいかな)
 顔をあげる。退屈な授業はのろのろと進み、黒板がちまちまと埋まっていく。私はどちらかといえば不真面目な生徒だと自分を疑っているが、板書をとる程度にはやる気がある。結局これはまじめってことなのかな。
 アヘン戦争とかいう地獄に地獄を重ねてイギリスをぶっかけたみたいなひど過ぎる歴史を文字に起こしているうちに、またしてもペンを取り落とした。どうしたのだろう。拾う。書く。落とす。拾う。書く。落とす。なんだ? これはもう明らかにおかしい。病気か? 私死ぬの?
 余命宣告にあらがうように、もう一度ペンをとる。ノートに向き合って気合いをいれると、いつものように指先を動かした。さらさらとペンは動き、

 ――おまえ を うばう

「はっ?」
 思わず変な声が出た。授業終盤の弛緩した空気の中でその声はいやによく響き、クラス中の視線が集まる。しまった。私はつとめて平静なふりをしつつ、そっと視線を机に落とした。こっちを見るな。こっちを見るな。黒板を見ろ、まだイギリスの非道はつづいているぞ。
「長岡、なんだ?」
「なんでもないです」
「お前、まさかなんでもないって言えばなにやってもスルーされると思ってるのか?」
 陰険教師め。お前などイギリスの敵になって悪逆非道の限りを尽くされろ。
「ちゃんと聞けよ、お前らも。ここは『試験に出るぞ』ってやつだぞ」
 イギリス教師が授業に戻ると、集まった視線はすぐに散らばっていった。おそるおそる視線をあげると、教師はイギリスがいかに悪かを長々と説明していた。おそるべし大英帝国。滅ぼしたほうがいいのでは。
「えっと……」
 私のノートにもイギリスの悪事がつらつらと書かれている。私自身が書いたのだから、そりゃあそうだ。じゃあ、その端にひっついた汚い鉤文字はなんだ?
 おまえをうばう。
 お前を奪う――お前って誰だ? 誰が奪うんだ? というか、この文字はなんなんだ? 私が書いたのだろうか。私が書いたのだ。私の右手が書いたのだ。
「なんだこれ……」
 注目を浴びないよう口の中だけでつぶやいて、私は自分の右手を見た。指を動かし、手首をひねる。ちょっと手の甲をつまんでみる。痛い。私の手だ。
「なんなんだ」
 わけがわからない。イギリスよりも意味不明だ。これはいったいなんなんだ?
 混乱しているとチャイムが鳴った。担任が声をあげる前から教室の空気がざわめきだす。無理もない。次は昼休みだ。
「きりーつ」
 クラス委員の霧島ちゃんがかわいすぎる声をあげる。ガタガタと立ち上がるクラスメイトに従って、私も立って頭を下げた。視界の端で右手がカサカサと動いた気がしたが、気のせいだと思うことにした。

**

 昼休みの間も、右手の違和感はつづいた。どうも力加減がうまくいかなかったり、持っているものを取り落としたりする。友人にも心配されたし私も不安になってきたが、それ以外は正常なのだ。
「神経とか、もしなにかなってたら大変だよ。早めに病院に行きなよ」
 通りすがりの霧島ちゃんにまでそんなことを言われる始末である。
(しかし霧島ちゃんかわいいなあ)
 霧島ちゃんはクラス委員で、ほそっこい眼鏡に黒髪のおさげと、ギリギリのところを走るマイペースな子だ。当然ものすごく真面目で優秀で、しかも友達思いで、なんと超常現象好きというわけのわからないオプションまでついている。真面目なくせに堅苦しくなく、きちっとしているわりに人懐っこいという、ハイスペックを通り越してご都合主義さえ感じる「こんなやつこの世にいるのか……」人間である。なんといってもパンツ。
(パンツ?)
 パンツだ。
「きゃあっ!」
 録音してリピートしたらきっと幸せになれるだろう悲鳴をあげて、霧島ちゃんが体をよじった。無理もない。誰かが霧島ちゃんのスカートを盛大にめくりあげて、フリルつきのピンクのパンツがもろ見えになっているのだ。マジかよ霧島ちゃん。ピンクフリルって。イギリスもびっくりだ。
 いや待て、いったい誰が霧島ちゃんのスカートをめくるなんて鬼畜米英もかくやという悪事を働いたのだ。成敗だ。正義の戦争だ。
「ちょっと、なにするの長岡さん!」
 長岡? 長岡ってのは誰だ。長岡英子。私じゃん!
「うわっ、ごめん!」
 思わず叫ぶと、私の右手はスカートを離――さなかった。端っこをつかんだまま、挙手をするように高くあがった。当然、霧島ちゃんのパンツはますます衆目にさらされる。「ちょっと!」と怒るというよりは涙目の抗議にあわてて手をおろそうとするが、まったくいうことをきかない。
「違う、ちょっ、この手、この手が……」
 左手で思い切り右手をはたくと、やっと頑なな手から力が抜けた。ふわりと蠱惑的なしぐさでスカートが舞い降りる。なんだ。なんなんだ。何もつかまない五指は失ったものを求めるようにわきわきと動いていたが、やがてぴたりと静止した。
 ぞくり、と背を何かが這いずった。
「なに、なんなのよ、もう!」
 霧島ちゃんは完全に怒って(超珍しい)、早足で教室を出て行った。まわりが何か言っている。非難する女子の声と喝采する男子の声。どっちもうるさい。
「か、かえる」
 病院。病院? そうだ、病院に行こう。何科だこれ。ぶるりと足が震えた。それすら私の意志に反する動きのようで、私はわざと荒々しく、足音を立てて教室を出た。

**

 職員室に寄って早退の旨を伝えると、担任の若い女性教師(巨乳で美人)はおろおろしつつ許可をくれた。「大丈夫?」を十回くらい繰り返す担任に問題ないと嘘をついて、右手を抑えつけたまま帰路につく。
 右手がおかしい。動かないならまだいい。勝手に、それも明確な意思をもって動くなんて信じられない。お前を奪う――そういうこと?
 それとも、すべて私自身がやっていることなのだろうか。自分でノートに脅しめいた文句を書いて、自分で霧島ちゃんのスカートをめくったのだろうか。確かに霧島ちゃんはかわいいが、別に本当にパンツを見たいわけじゃない。
 左手で定期を取り出し、左手で改札を通して、右腕を抑え込んだまま、おそるおそる電車に乗り込んだ。時刻は昼過ぎ、車両にはほとんど誰も乗っていない。
(座ろう……)
 家までは三駅ほど、十分もあれば着く。帰ったらすぐに病院に行こう。ともかく一番大きな総合病院に行けば、次にどうすればいいのか教えてくれるだろう。これが病気だったら――それも心の病気だったらどうしよう。家族は悲しむだろうか。怒るだろうか。友達はどう思うだろう。私の将来はどうなるんだろう。勝手に動く右手を抱えて、私はこれからどうすれば……
『いや』
 ……ん?
 顔をあげる。乗った時にはおじさんっぽい男の人がスマホをいじっていたけど、今は誰もいない。さっき止まった駅で降りたのだろう。あと二駅。
『いや、いや。その心配はない』
 ……なんだ?
 声がする。どこからだ? 近くだ。近くだけど、この車両には私ひとりだ。貸し切り状態なのだ。声なんてするはずがない。
『お前は病気じゃないし、将来もきっと平気さ――ただ、家族と友達がどうなるかは知らんがね』
「なに!?」
 思わず声をあげてしまった。だってそうだろう。出所が知れない謎の声。しかもこの声は、私の思考に返事をした!
『落ち着けよ、お前だって、もうわかってるだろう?』
 そう。そうだろう。わかっている。わかっているとも。関係ないなんて馬鹿なことは思わない。この声は、右腕から聞こえているのだ。
「なん、なんなの、なんなのこれ……」
 まったく力をいれていないのに、右手が勝手に持ち上がり、私の目の前でうねうねと指を蠢かした。
『お前を奪う。そう言ったろ?』
 声がする。本当に右手から聞こえているわけではないみたいだけれど、間違いない。この右手を操っている何者かが、今私に語りかけているのだ。
「冗談でしょ、なんなのよあんた……」
 ぞわぞわと得体のしれないものが背筋を這っている。気持ち悪い。吐き気がする。左手で思い切り右腕をつかんで、膝の上まで引きずり下ろした。右腕は意外と大人しく、無理に逆らおうとはしない。
「私の腕だよ、返してよ!」
『別にお前の腕はお前のままさ。感覚もあるだろう?』
 その通りだ、感覚はある。だからこそ気持ちが悪いのだ。自分のカラダが自分の意志に従わない――こんな恐怖がほかにあるだろうか。
『まあ落ち着けよ』
「うるさい……!」
 けらけらけらと右腕が笑う。ともかく左手で押さえつけておけることはわかった。今のところはそれでいい。
(今のところは――問題はこの後だ)
 今後どうするのか。こんな話、他人に信じてもらえるとは思えない。かろうじて力になってくれそうなのは霧島ちゃんくらいのものだろう。
(どうしよう。どうしよう)
 目の前の扉が開いて、ひやりとした風が入ってきた。ホームには誰もいない。ほどなく扉が閉まって、揺れとともに電車が走り出す。あと一駅。
『なにもとって食おうっていうんじゃない、命だって安全だ。いつまでも居座ろうって気持ちもない。簡単なことだろ?』
「なに言ってんの? いいから、いなくなってよ」
 ぎりぎりと左手に力をこめる。痛い。ちゃんと痛い。これは私の腕なんだ。私のなのに。
『簡単なことなんだよ――ただお前は、気持ちよくなればいい』
 きもちよく……?
 意味がわからない。状況と言葉がつながらない。問いただそうとしたところで、
『ひとまず、車両をうつろうか』
 世界が揺れた。
「――えっ?」
 ぐらりと目の前が傾いで、体が浮き上がる。床が抜けたのかと思った。得体のしれない浮遊感――しかし、両脚は確かに車両の床を踏みしめている。ただ、感覚だけがふわふわと落ち着かない。
(なんで……!)
「なんで!?」
 声をあげずにいられない。
 私は立ち上がっていた。自分の両足をピンと伸ばして、踵で体重を支えて、しっかりと立っていた。――そんなはずはない。私は一ミリだって足を動かしていないのに。
「まって、嘘でしょ……待って!」
 悲鳴を嘲笑うように、私の両脚は私を無視して歩き出した。体の動きと頭の中が一致しない。世界がぐらぐらと揺れている。気持ちが悪い。脊椎を、なにか得体の知れないものがわさわさと這いずっている。
「なんなの……」
『おちつけよ』
 くつくつと笑いながら右腕がそう言って、
『そーそー、おちつこう』
 ――えっ。
『大丈夫、下半身の扱いは慣れてるんだよ。こけたりしないよー』
「なに――」
 違う声。違う声だ。右腕とは別の声が、どこからか響いていいる。下半身の扱い――下半身の。
 両脚の。
「足も……足もなの!?」
『足もだよ』
『足もだねー』
 くつくつと、けらけらと、ふたつの声が重なって笑う。なにこれ――なんなのこれ。
 ガタン、と電車が一度揺れて、ゆっくりと停車した。脚はうまくバランスをとったようだったが、思わず左手でつり革をつかむ。自由になったといわんばかりに、右手が勝手にスカートをつまんだ。
「ちょっと!」
 はたくと静かになる。そうか。霧島ちゃんのスカートをめくったのもこいつのしわざか。
『さっさと移動しようぜ』
『おーう』
 待って、待ってよ。この駅が私の降りる駅だ。電車はもう降りるんだよ。この先には用なんてないんだ。家に帰るんだ。
『先頭な』
 けれど腕も脚もいうことをきかない。私の両脚はすたすたと歩きだして、視界の端で電車のドアが音を立てて閉まる。そうして、揺れとともに車両が走り出す。
「どうして……」
 冷静に考えて、ここで外に出たからといってどういうことはない。状況は何も変わらないのだ。そうとわかっていながらも、私は救いを絶たれたような気持ちだった。いつもの日常に帰れるはずの唯一の道が閉ざされたのだ――そんな妄想じみた考えに取り憑かれる。
 両脚は危なげなく人のまばらな車両を渡り、やがて先頭車両にたどりついた。この路線の先頭車両と末尾車両は二人掛けの座席が対面するボックス席になっている。家族四人なんかで、顔をつきあわせて座れるようになっているのだ。
 ここにも人は少ない――ボックス席に一人だけ、大荷物の男性が窓に頭を預けて眠っている。長距離を移動するのだろう。
『じゃ、ここな』
『いいね』
 右腕と両脚は楽し気に声をかけあいながら座る席を決めた。眠る男性の真後ろの席だ。ボックス席だから背中合わせに座ることになる。
(なに……なにする気なの?)
 さっきまでとは違い、この車両には人がいる。眠っているとはいえ真後ろにだ。ボックス席だからそうそう人目にはつかないだろうが。
『なに、ねえ』
 くつくつと不愉快に笑うのは右腕だ。なんだろうねえ、とやわらかい声で両脚が応える。脚が、下半身が思うように動かないのは、腕の時とは比較にならないほどの絶望感だった。逃げられないという端的な事実が心に重くのしかかってくる。主導権を握られたと、いやでも感じてしまう。
『じゃあまず、これから』
 言葉とともに、私の脚が、私自身の脚がゆっくりと左右に開きはじめた。膝と膝の距離が何かを焦らすように広がっていく。膝上のプリーツスカートが引っ張られて、あやういところまでずり上がっていく。
「なに……やめ、やめてよ……」
 変に大声を出して背後の男性が目を覚ましたら最悪だ。状況を理解してもらえるとは思えないし、下手をしたらそれこそ病院行きになってしまう。声を殺しての抗議は、しかしまったく無意味だった。
 脚を左手で抑えても効果がない。はしたなく肩幅ほどにまで脚を開くと、右腕が『これだけでエロいもんなあ』と囃し立てるような声をあげた。
 こいつ、見えているのだろうか?
 私の体を奪っていくこいつらがなんなのかはわからないが、今の言葉は私の姿が見えていない限り出て来ないものだ。見えているとしたら、どうやって見ているのだ。ボックス席の窓際、私を外から見る視線はない。
(――私の目か?)
『おーい、次、はやくはやく』
 思考を遮るように両脚が誰かを急かす。誰を? 決まっている、右腕だ。
 わざわざ目立たない――邪魔の入らない――ボックス席に移動して、脚を開いて、こいつらの目的は明白だった。気持ちよくなればいい。そう、右腕が言っていたじゃないか。
 いやらしいことを、する気なんだ。
(いやだ!)
 私は思い切り左手に力をこめて、右腕を握りこんだ。絶対にいやだ。絶対にごめんだ。たとえ私の体だったとしても、だからこそいやだ。こんな得体の知れない連中に好きなように弄ばれるなんて、許せない。
『がんばるねえ』
 くつくつと右腕が笑う。どういう理屈かはわからないけど、右腕のことは左手で抑えられるのだ。足だけでは股を開くくらいがせいぜいだろう。これ以上は、絶対に何もさせない。
『おーい、もう待ちきれないよ』
 両脚が騒ぐ。右腕はそれに嘆息気味に、
『そうだな――おい、もういいだろ、早く仕事しろよ』
 嘆息気味に、同調した。
 え?
 仕事しろ――右腕が言ったのか? 誰に?
『わかったよォ』
 両脚と右腕の催促に、どこか弱気な、細々とした声が、答えた。
「え――」
 ぞくり、とまた背を何かが這い上がる。意識の隙間をつくように左手が離れる。待ってましたといわんばかりに右腕が五指を躍らせる。『これでいいだろォ』と声がする。この声。この声は。みっつ目のこの声は。
 左腕の――声だ。
『これでいいだろォ』
『サボりすぎなんだよお前は。次次、脱ごうぜ早く』
『いやあ、もりあがってきたねえ』
「やめて……!」
『やめなーい』
 両脚の声を号令に、左右の腕がちぐはぐな動きでスカートをめくった。膝から、ふともも、白い下着までがあらわになる。
「……ッ!」
『さあーどんどんいっちゃおう』
『腰うかせろ、腰』
 ほんの少しおしりが浮いて、右手がスカートの中にもぐりこむ。脱ぐ気だ。こいつら、こんなところで、脱ぐ気だ!
 だめだ。両腕両脚。もうどうにもできない。叫ぼう。叫んで助けを呼ぼう。頭がおかしいと思われるかもしれないが、それならそれでいい。私が私を止められないなら、他人に私を拘束してもらうのだ。
 息を吸う。車掌にまで届くように。隣の車両からも人が来るように。全力で――

 ――ぞわり、と、背中を得たいの知れないものが走り抜けた――

 ――全力で、叫んだのに。
 声が出なかった。
 はあっ、とかすかに息がこぼれて、それだけだった。右手がもぞもぞとやりながら『手伝えよ』と左手に文句を言っている。『わかったよォ』と左手が応える。
「残念だったな」
 私の口が。私の声で。
「決断が遅いな。お前を奪うと――教えてやったというのに」
 私ではない誰かの言葉を、喋っている。
 ぞわぞわと背筋を這っていた不気味な感覚が、今や全身に及んでいた。背中から、肩甲骨、肋骨、おなか、みぞおち、胸――きっと内臓まで全部を侵している。
『おっとリーダー。おつかれさん』
『おつかれー』
『お、おつかれです……』
「うん、お疲れ様」
(あ――あ……ああ……)
 喋れない。言葉まで奪われてしまった。まくれあがったスカートの向こうでは、ずりずりと下着が下げられていく。助けも呼べない。逃げることもできない。抑えつけるなんて絶対無理だ。ちくしょう。なんなんだこれは。
『いい眺め!』
 その声に、私は思い切り目をつむった。こいつらがどうやって私を見ているのかわからないが、もしも私の視界を通しているのなら、これで何も見えなくなるはずだ。
「正解だが、それも遅い」
 ぱちり。
 私の意志に反して、両目が開いた。
 ぐらり、と頭が揺れる錯覚。白い下着は既にお尻を完全に抜けて、かろうじて恥ずかしい部分を隠している程度。足を開き過ぎたせいで、そこから先へは進めないようだ。しかし、そんなものなんの救いにもならない。
「もう何もかも遅い。お前を奪う。それはもう終わっているんだ」
 うそだ。こんなのうそだ。ありえない。
『現実逃避かよ』
『無理もないよねー』
「腕も、脚も、頭も、すでに俺たちのものだ。どこも動かせまい?」
 力を入れる。意思を伝える。動け。動け。動け!
『ぎゃはははは』
 右腕が笑う。動かない――どこも動かない。言葉の通りなら上半身のいくらかはまだ奪われていないはずなのに、それも動かない。首も、顔も、何もかもが動かない。それなのに体の感覚は明瞭なのだ。電車の揺れも、硬いシートも、扉が開くたびに通り過ぎる風の温度も、車掌のアナウンスも全て、私自身が感じている。
 そうだ。
 ゆっくりと引き下げられる下着の感触も、間違いなく私自身のものなのだ。
「お前のカラダは奪わせてもらった。なに、右腕のやつも言ってただろう? このまま乗っ取ろうっていうんじゃない。ちょっと気持ち良くなるだけだ。すぐにすむさ」
 私の口を使ってそう言うと、リーダーと呼ばれた誰かは「おい」と先を促した。両脚が開いた膝を閉じる。もちろんこれで終わりというわけじゃない。待ち構えていたかのように右腕がずるずると下着を引き下げる。左腕もあわてて後を追う。まくれあがったスカートはごたごたしている内に元の位置まで戻っていて、裸の下半身が見えてしまうことはなかった。しかし右腕は構わずに下着の位置を下げていく。
『膝あげてくれ』
『あいよー』
 持ち上がった右膝をするりと下着が通り、そのまま爪先まで抜けきってしまった。片側さえ抜けてしまえばそれでいいと言わんばかりに、右腕が親指を立てる。
(待って、待って、待って――)
 叫んでも、願っても、なにひとつ形にならない。私の中ではじける悲鳴は、四つの声の主を悦ばせるだけで、誰にも届かずに私の中に消えていく。
『おい、もういいよ』
『えっ、ああ、そうかァ……』
 どんくさい左腕はまだ下着を下げようとがんばっていたが、必要がないとわかるとだらりと垂れ下がった。いまだ――と力を入れてみたが、まったく反応がない。
「さあ、触ろうか」
 待って。本当に待って。うそでしょ、うそだよ。なんでこんなことになったの? 私がなにしたっていうの。
「なにもしていない。お前はなにも悪くない」
『いや、リーダー。嘘はよくねえよ。悪いだろ、こいつは』
 くつくつくつ、と右腕が笑う。いやらしく笑う。
『運がさ、絶望的に悪いよ』
 くにっ――
 スカートの中にもぐりこんだ指先が、見えないままにそこに触れた。
(ひっ!)
 ぞくっ、と悪寒が走った。蟲が肌の上を這った時のような感覚。反射的に体を跳ねさせて、しかし現実の肉体は微動だにしない。意識と運動の食い違いに、気持ちが悪くなる。
『ふぉっ……いいねー……』
 両脚が――下半身に取り憑いた誰かが、そう声をあげる。いい。気持ちいい? わからない、違和感と嫌悪感しかない。私の指が私の体を触っているのに、どちらも他人のもののようだ。しかし確かに、触られているのも触っているのも私なのだ。
 頭が狂いそうになる。
「ん……こいつ、しっかりしすぎてるな」
『どゆこと?』
「状況を正しく理解しすぎてる――憑依酔いで壊れかねない」
 憑依酔い。
 聞いたことのない言葉だけれど、言わんとしていることは理解できる。なるほど、酔い。これは確かに、乗り物酔いに近い。しかし酔って狂うのは体調ではなく精神のほうだ。限界に達したときどうなるのかなんて考えたくもない。
 その間にも、右腕と左手はせわしなく股間をいじっている。蟲と蛇がのたくりあってやわらかい部分を漁っている。気持ち悪い。気持ち悪い。
(ふっ……うぅ、んぅ……)
 気持ち悪いのに――ぴちゃぴちゃと水音が響く頃には、たしかに快感めいたものがにじみはじめていた。夜、布団の中で、自分で触った時のことを思い出す。あの時よりもずっと激しく、いやらしく、左右の指がスカートの中で踊っている。
(ぁ、あぁ、ふぅ、ンッ……)
『はぁ……ふぅ……』
 特に左手が執拗だった。指先で隅から隅まで、形を確かめるように陰唇をなぞりあげ、快楽のポイントを探しながらぐにぐにと媚肉をねぶる。蟲が這いずるような気色悪さも繰り返されるごとに慣れて、生み出される快感だけがあとに残る。じわじわと染み入るような愛撫は膣を汚染して、やがて子宮に熱をこもらせていく。
(ふああっ……)
 もし、今声を出せたなら……私は我慢できているだろうか?
 右腕は左手に呆れたようにスカートから抜け出すと、制服の下からもぐりこむように胸元に手を伸ばした。シャツがまくりあげられておなかがひやりと冷える。
(ちょっと、おっぱい……!)
 ふにゅ、とやわらかい音が頭の奥のほうで鳴った気がした。思いのほか優しく触れた右腕は、あまり力は込めずに胸を愛撫した。まさしく撫でて愛でるように、ゆっくりと、おだやかに、円を描いて……
(ふぅ……う……)
 じわり、じわりとおなかの下に何かが溜まっていく。それが漏れ出して腰のあたりを浸し、背骨をのぼって全身に巡り出す。快楽で焙られている――じりじりと昂っていくのを感じる。
(こわい――)
 このままどこか知らない場所に連れていかれてしまう。私の指が、私の体の、私の知らない部分を勝手に開いていく。怖い。怖い。
(ふぁあっ!)
 余計なことを考えるなといわんばかりに、体の下のほうで淫感が弾けた。それまでの追い詰めるような感覚とは違う、貫くような刺激。子宮に溜まっていた熱が一瞬燃え盛って、体の中心に火が灯る。
「ふぁっ」
 声が出た――これは私の声ではたぶんない。私を操っている誰かが、耐えきれずに上げた声だ。
『そろそろ、いいよねぇ』
 おっとりとした声をあげながら、左手はくりくりとそこをいじりはじめる。こぼれる蜜で濡らした指先で、すっかり快楽を吸い上げて充血したそれ――おそらくは自ら皮を剥いで顔を出している、いやらしいクリトリスを。
『うわぁ、大きいねえ』
(やめてっ……)
 くにゅっ、くにゅっと音が聞こえてくるような、なめらかでリズミカルな動きで淫核をこねまわす。そのたびに淫らな炎が膣を走り抜けて、子宮に溜まった熱を弾けさせる。既に快楽は体ぜんぶを侵している――まるで血液のかわりに快感が全身を巡っているようだ。腕も、脚も、おなかも、胸も、その内側も、全てが悶えて、震えて、そして左手のひとつまみで弾けて喘いでいる。
『ほら、ほら、ほらぁ』
 つまんで、こすりあげて、こねて、ひねって、子供がおもちゃを弄り回すように、私の左手が容赦なく蠢く。ぴちゃ、といじられていないはずの股間から音が聞こえる。垂れてる――足元まで。
(あぁっ、あ、あぁあっ、ふああっ)
 右腕も左手に応えるようにその動きを早め出した。優しかった愛撫が嘘のように、感触を楽しむように柔肉をつかみげ、すでに勃起した乳首を二本の指できゅうっと引っ張る。
(いっ、ぁあぅ――ッ!)
 左胸に走った衝撃はそのまま心臓に直撃し、循環する快感が一斉に速度を増した。震えて、悶えて、叫びたいのに、肉体は何も応えない。全身を疾走する快感と、それが収束する淫核だけが私の全てになってしまったみたいだった。
(あぁ、あっ、あぁあ……っ)
 もどかしい。どうして体が動かないんだ。意識と肉体の乖離が、快感の逃げ場をなくしている。台風みたいに渦を巻いて、その勢力を強めている。もうさっきから、ずっと喘ぎ声が漏れているけれど、それでもそれは私の声じゃない。声をあげたい。叫びたい。動きたい。悶えたい。もっと――
(もっと気持ちよくなりたい――)
 ――待って。
 ちがう、まって、そうじゃない――そうじゃない。
「そうだろう?」
 そうじゃない。
「足りないだろう。入れてほしいだろう。そういうものなんだよ――」
 そうじゃない――やめて、やめて、そんなことない。私じゃない。お前たちだ。やっているのはお前たちじゃないか。感じているのもお前たちだ。
『お前のカラダなんだぜ』
 くつくつと笑い声がする。
「おい、つなげるぞ」 
『おっ、了解』『りょーかい』『いいよぉ』
 つなげる――なにをだ?
 いやな予感がしたけれど、そんなものは血管を流れる淫悦の前には無意味だった。私には意識しか残っていないのに、それすら靄がかかっている。ピンク色の靄だ。霧島ちゃんのパンツみたいな。
「お前のカラダには四人の精神が入っている――そしてそれぞれ全員が感覚を持っている。『感じているのはお前たち』ってのは、まあ間違いじゃないんだよ」
 全員が――四人、私本人をいれて、五人全員が感覚を持っている――分け合っている?
「分けてはいない。全員平等に、百パーセント受け取っているんだ。お前にだけ余裕がないのは、お前の精神が淫乱なだけだ」
 ちが――
(ふぁっ、ああ、ぁああっ!)
 抗議はひときわ強く捻りあげられた淫核の衝撃に遮られた――ちくしょう、この左手のやろう……!
「ふゥッ……つま、つまりな。四人分別々に受け取っている快楽を――ひとつにつなげたらどうなるかっていう、話だ」
 別々に――受け取っている、快楽を。
 ひとつに。
 ひとつに?
 ――私に?
(え?)
 それぞれが百パーセント受け取っていた感覚を、私に収束させたら、それは――
「そうだ、そういうことだ。いくぞ?」
(まって――)
 静止に意味はなかった。
 声はあげられない。カラダはうごかない。意識はぼやけている。快楽だけが明瞭だ。
 そして、

(――ひっ、ぁああぁあああぁああああっ、あっ、ぁああっ、うぁああぁあああっ!!)

 それが来た。
 それはもはや快楽ではなかった。感覚ですらなかった。もっと凄まじい、もっと得体の知れない、形容できない何かだった。
(あぁああ! あっ! あああぁああっ! いやぁあああっ!)
 肉体がはじけ飛んで、意識と性感だけが浮かび上がり、それが猛烈な炎で焦がされていく。カラダのどこが何をされているのかなんてもうわからない。触れればそれだけで絶頂するむき出しの性感が塊になって、互いに互いをこすりあっているみたいだ。
(あぁああっ、ふあぁっ、あっ、ぁああっ! あぁああ! たすっ、たすけっ……!)
 一瞬ごとに快感の津波に全身がさらわれて、意識までも弾け飛んで消えていく。次の瞬間には脳天を突き刺す淫雷が神経を痺れさせて覚醒し、またそれが破裂して意識を吹き飛ばす。その繰り返し。
(たひゅ、たひゅけてっ、ふあっ、あああぁあっ! たひゅけて! たっ、あぁああああ!)
 どこで誰が何をしたのか、ひときわ激しい衝撃がまたしても私の全てをさらっていく。白い――真っ白い世界で、そこでも快感と底知れぬ絶頂感だけは全身を包んでいる。
 帰ってこられなくなる――
(やだ……やだぁ、もうや……いきたくない……いきたく……)
 気が付けば、私はぼろぼろと泣いていた。心も――体も。
(……ああ……)
 激流の交感がどれほど繰り返されたのか、いつの間にか絶頂の嵐はおさまっていて、やっと自分にカラダがあることを思い出した。それでもまだ、熾火のように淫情の渦が燃えている。
 頭から愛液をかぶったみたいに全身汗だくで、ぐったりと力を抜く右腕も、執拗に膣を掘る左手も、ボックス席の対面に踵を乗せる脚も、すべてが快楽に打ち震えていた。息を吸うだけで気道が震え、吐くだけで肺が喘ぐ。ツバなんて呑み込もうものなら喉から食道までが絶頂して止まらない。それなのに口の中にはあとからあとから淫唾液があふれて、開きっぱなしの口元からぼたぼたと零れ落ちて胸元を汚している。スカートは完全にめくれあがって、私は今日はじめて自分の秘部を見た。
 真っ赤に充血して震えるそこは、今までのどの時よりもいやらしく、美しく、男を誘っているように見えた。
「あ、はぁ、ふぅ……」
 ゆっくりと、性感に震えるカラダをいたわるような浅い呼吸。左手だけは執拗に陰核に触れていたが、右腕はもうどこにも触れていない。満足なんてものじゃない。これほどの体験は、おそらく二度とできないだろう。
「すごかったろ……?」
(……)
 すごかった。
 快感の余韻は少しずつ、とろけるように抜けていくが、それでも忘れようもない。あんな凄まじい――五人分の快悦を、どう形容すればいいのか。
(もう、いいでしょ……出て行って……)
 疲労と汗と涙と一緒に快感が抜け落ちると、虚脱感とともに嫌悪と後悔が忍び寄ってきた。止められなかった。それは確かだ。どうせどうにもできなかった。でも、こんな最低の状況で私自身が喘いでいたのも確かだったのだ。
 最悪だ――私は。
「おい、もういいよ」
 誰に言ったのかと思ったが、左手に言ったのだ。執拗に(本当に執拗だ、なんだこいつ)股間をいじっていた左手は、その言葉にやっと力を抜いた。手首から先の感覚がほとんどない。どれだけだ。
(もう終わりでしょ……満足したでしょ? 出て行って、出て行ってよ)
 解放して。
 十分楽しんだ、十分辱めたはずだ。もう満足してくれていいはずだ。
「ああ、満足だ――俺たちはな」
『そうそう、俺たちはな』
『あはは』
(……?)
 なら、もう終わりだ。そうでしょう? だってほかに、ほかに満足していない人間なんて――

「あの」

 ――人間なんて。
「はい」
 声に、私の口が応える。
 顔が、横を向く。私のカラダが私を無視して、私に声をかけてきた、第三者に向き直る。
「あ。えっと、その……」
 彼は。
 大荷物を抱えて、真後ろの席で眠っていたはずの彼は、へらへらといやらしい笑みを浮かべて、ほんの少し前かがみに、何かを期待するような眼で、私を見ていた。
「すごい、声だったんで……」
(――声!)
 五人分の快楽を、つなげる――そうか。五人分を受け取るのは私だけじゃない。全員が、全員の感覚を共有していた――それじゃあ、
『さすがのリーダーも、あれで声をおさえるのは無理だよな』
 それじゃあ。
「えっと……」
 やだ。やめて、やめて。もういいでしょ、もう終わったはずでしょ。私のカラダをさんざん自由にしたでしょ? なら許して、もう許してよ。今から電車を降りて、反対車線に乗って、家まで帰るんだ。もう終わりだよ。もう終わりにしてよ!
『足りてんの?』
 とくん、と。
 その声に、心臓が鳴った気がした。
『お前、足りてんの?』
 右腕が、ささやいている。
『お前のナカ――満足してる?』
 全身を。
 爪の先から毛の端まで、全身を快楽にさらわれて――まだ、ソコだけが埋まっていない。
 他の場所が燃え上がれば燃え上がるほど、そこは疼きを増して、いまだにソコだけが満足していない。その空洞だけが。
 埋めてくれ、埋めてくれと――
(いやだ、やだ、やだよ、やだょぉ……)
 私の両脚が立ち上がり、その男の方を向く。私の両腕がスカートをめくり、私の口元がいやらしく歪んだ。
 喘いでいる。疼いている。悶えている。
 いやだ、いやだ、本当にいやだ。本当にいやなんだ。いやなのに。いやなのに。
(任せるぜ――お前に)
「え」
 声が出る。指がもたつく。足が震える。目をしばたたかせる。涙がこぼれた。
「あの、えっとさ、その、」
 つくりかえられた。このたった十数分で、私は全く別のカラダにされてしまった。暴かれて、晒されて、気づかされてしまった。私は知ってしまったし――知りたいと思ってしまった。
 本当にいやなのに。今も涙が止まらないのに。それなのに。
「どうしよう、ホテルとか……?」
 それなのに。
「――ください」
「え?」
 私は両腕をゆっくりと引き上げた。愛液でぐしょぐしょになかったスカートがまくりあがって、さんざんに嬲られてヒクヒクと淫靡に蠢くそこがあらわになる。男が息を呑んだ。
「なにを?」
(なにを?)
『なにを?』
『なーにを?』
『なに……を?』
 ああ。
 私は言った。

「入れて――ください」

**

『おつかれー次はどうする?』
『あのさー、眼鏡の委員長、あれよくない?』
『同じ地域でふたりって平気?』
『いや、いいだろう。今回の子は素質ありすぎだよ。結局憑依酔いより快感のほうが勝っちまった。もう一度くらいヤってもいいし、なんなら絡ませてもいいな』
『からみ……』
『思いついた。分担って可能?』
『えー、三・二で分かれて憑依ってこと? やったことないよー?』
『試してもいいな。失敗したって、どうせ相手が死ぬだけだよ』
『分担……』
『ま、じゃあひとまず眼鏡いこう、眼鏡。いやあ、今回はよかったなあ』
『そんじゃー次も協力してがんばろー』
『百合……良い……』

**

 そしてどこかで――今日も、ペンが転がる。

群れの理論――終